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Column【コラム -琉球新報より 共に考える住宅デザイン-】
琉球新報より 共に考える住宅デザイン ― 金城 司
vol.007 伝統へのオマ−ジュ
近代建築の三大巨匠と言えばライト、コルビュジェ、ミ−スである。もちろん、私自身この巨匠達を敬愛してやまない一人である。
常に時代の流れを的確にとらえ、建築を通して社会環境やその時代の造形化する手腕は素晴らしく、そして刺激的である。さらに加えてデ・スティル派から受けた影響も大きい。
デ・スティル派の視点は、近代的生活環境が次第に自然環境から離れ抽象的になりつつあるという認識から成立する。彼らの活動は場所性や地域性に縛られない、インタ−ナショナルな建築行為を目指していた。
だからといって場所性や地域性を無視して建築を計画することは実際問題考えにくい。
建築が常に重力に逆らえないように、場所の持つ個性に逆らうこと自体好ましい好意ではない。
常に時代の流れを的確にとらえ、建築を通して社会環境やその時代の造形化する手腕は素晴らしく、そして刺激的である。さらに加えてデ・スティル派から受けた影響も大きい。
デ・スティル派の視点は、近代的生活環境が次第に自然環境から離れ抽象的になりつつあるという認識から成立する。彼らの活動は場所性や地域性に縛られない、インタ−ナショナルな建築行為を目指していた。
だからといって場所性や地域性を無視して建築を計画することは実際問題考えにくい。
建築が常に重力に逆らえないように、場所の持つ個性に逆らうこと自体好ましい好意ではない。
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空間に風を導く工夫
しかし、その半面抽象美を追求すればする程、色に対してきわめてリアルな物質感を感じた所に私の興味がわいてくるのである。抽象化するほどにその物自体が妙なリアリティ−を持ちはじめるパラドックス。
視点を変えて見ることで今の沖縄の建築環境とどこか重なって見えてくるのである。
近代建築が場所性や地域性を無視し、批判の的となり伝統建築の見直しが図られ、多くの伝統的姿をした建築は見られるようになった。
しかし、結局のところ伝統や文化を意識するあまり伝統のコマ−シャリズム的消費が繰り返され最も意味深い言語が消費される状況。 そこに妙な違和感を覚えてしまう。
そんなことから、今回紹介する東風平の住宅は近代建築の構成要素と伝統的空間言語を、建築的「遊び」を盛り込むことで両者を対立することなく取り込めないかと考えながら計画された。
視点を変えて見ることで今の沖縄の建築環境とどこか重なって見えてくるのである。
近代建築が場所性や地域性を無視し、批判の的となり伝統建築の見直しが図られ、多くの伝統的姿をした建築は見られるようになった。
しかし、結局のところ伝統や文化を意識するあまり伝統のコマ−シャリズム的消費が繰り返され最も意味深い言語が消費される状況。 そこに妙な違和感を覚えてしまう。
そんなことから、今回紹介する東風平の住宅は近代建築の構成要素と伝統的空間言語を、建築的「遊び」を盛り込むことで両者を対立することなく取り込めないかと考えながら計画された。
雨端で陰影を表現
広々とした土間玄関が室内に風を導く。赤い柱はさりげなくヒンプンの役割も果たす。 |
例えば水平に伸びる深い庇は沖縄の強い日差しから室内を守るアマハジ(雨端)を近代的表現で誇張し、沖縄特有の屋根の建築を表現した。
さらにアマハジによる光と影のコントラストを白の大壁(垂直の屋根)がピロティ−部と対比され光と影の建築を表現する。
ピロティ−と土間玄関は風を導く伝統的工夫で構成された。それから空へ向けられた赤い垂直柱は、赤瓦屋根へのオマ−ジュ(敬意)であり、ヒンプンの役割も果たしてくれる。
今後「近代か伝統か」という議論から建築をもっとダイナミックなものとしてとらえ直す必要があるのではないだろうか。
両者の多様な文脈を結合しながらデザインを展開することが重要になると思う。未来の原風景を模索し「建築になにが可能か」をもう一度問うことが今、大切な事ではないであうか。
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